一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

17(月)の朝起きたら眩暈がして歩けない。
運動不足と睡眠不足だとは思うものの脳梗塞の再発かも知れないと心配しています。21日に藤田医院に行くつもりです。

先日、BSを見ていたら久しぶりに芳村真理さんが出ていました。なつかしいですね。私より先輩と言うのに少しも変わらず美しいのです。私は元々彼女のファンでしたが「夜のヒットスタジオ」の司会をされていたので毎週お会いしたり着物のさが美に関わっていたので、良くご一緒したものです。
何時も人の気をそらさず話も面白い人でした。代官山の喫茶店で良く打ち合わせをしたことが忘れられません。辻が花のことも彼女から学びました。いろいろのことを教えてくれた彼女にまたいつかお目にかかりたいものです。昭和の芸能史の語りべとしていつまでも活躍して欲しい人です。

   *  

色々不安な事がありますが先ずはこの現状を乗り越えなければなりません。お互いにしぶとく生きて行きましょう。今週は少し短いような気がしますがお許しを!

(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

8月9日は藤田菜七子騎手の誕生日だそうですが、この日、彼女は3戦して2勝、3着が1回と好成績を収めました。まだまだ男社会という環境で気を吐いている彼女には頭が下がります。

デビューした時からずっと応援してきましたが、本当に立派だと思います。殊に今のような状況の中では元気を貰える活躍と言えるでしょう。男勝りと言っても若い女性らしい魅力は少しも失っていないはにかみがいいですね。いつまでも愛すべきキャラクターであって欲しいと思います。

新型コロナ騒ぎが治まった暁には生の菜七子騎手をぜひ見に競馬場に行きたいものです。
この歳になって若い女性のファンは照れくさいけれど、元気を貰える要素と思って許して下さい。


先日、赤字が続くローカル線の廃線前の元気な映像を見ました。
郷愁とは別に美しい姿と一時代を立派に駆け抜けてくれた文化遺産を失ってしまったことに後悔を覚えました。何故、採算が合わないからといっていとも簡単に廃止してしまったのでしょう。文化遺産をいとも簡単に捨ててしまった経済優先の考え方に寂しさを覚えました。

取り戻そうとしても二度と帰って来ない文化遺産をもっと大切にしないと、人類はいつか深刻な後悔をするのではないか。後世の人々がいくら掘り返してもその時はもう遅い。「後悔先に立たず」。そんな言葉が頭を巡る映像を見ていて胸が締め付けられたのは、私だけだったのでしょうか?
「それこそ、年寄りの郷愁だよ」と笑われるのでしょうか? 文化とははかないものですね。
(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

大相撲7月場所の優勝は劇的な照ノ富士復活優勝で終わりました。
怪我と病気で一時は序二段まで下がりながら辛抱して復活した忍耐は、今の私たちにとっても勇気をもらえるものでした。どんなに辛い事があっても諦めず我慢して頑張ればいい事があるという教えでもありました。この苦難を乗り越えたことによって彼は人間的にも大きく成長したと思います。心から祝福すると同時に、彼の不屈の精神を見習いたいものです。

*

新型コロナの感染が広がっています。もう自己防衛するしかないようです。
出来るだけ外出を控え、どうしても出て行かなければならない時には密を避けるようにする積もりです。日々報道される数字に一喜一憂していても仕方ありません。自分の行動が人の迷惑にならないように気を付けながら嵐の通り過ぎるのを待つ積もりです。いくら雨の日が続いても、いつかは晴れる日がやって来ます。

*

1ヵ月後の9月3日から4日間は、春秋座で「立川志の輔公演」が開催されます。
この時期に京都までやって来てくれる志の輔師匠の心意気に感謝しています。入場者数に制限があるので回数を増やしてくれたのもありがたい事です。
今改めてパルコ劇場公演のCDを聴いていますが、毎年その時々の世相を笑いを取りながら鋭く描写してきた時代感覚に驚かされています。師匠がコロナ騒ぎをどう風刺して笑いに変えて行ってくれるのかと想像するだけでもわくわくします。
この公演が春秋座再開の記念すべき4日間になる事を楽しみにしていたいと思います。

(音楽・演劇プロデューサー    橘市郎)

 

「吉永みち子」、競馬好きな人はこの名前を見たら、ミスターシービーで3冠騎手になった故・吉永正人騎手の奥様である事がわかると思いますが、若い人にとっては作家でありコメンテイターであることの方が通りがいいかも知れませんね。

今日はみち子さんと私の繋がりを紹介したいと思います。
私が初めて競馬に出会ったのは帝国ホテルのレストランシアターの楽屋で、アサデンコウのダービー優勝を観戦した時ですから30歳近かったと思います。どちらかといえば奥手でした。しかし、骨折しながら3本脚でゴールした馬の姿に感動してすっかり競馬ファンになってしまった私は、生まれたばかりの長女を抱っこした妻を誘って中山競馬場に行ったのです。
その日はビギナーズラックと言うもので、何とホテルに1泊するほどのプラスでした。儲けさせてくれたのが吉永正人騎手。それ以来私は熱狂的な吉永ファンになってしまったのです。1頭だけ離れた後方から行って直線一気に追い込む大胆な騎乗は、正に薩摩男の魂を見た感じでした。

その頃の「競馬報知」に、ファンが好きな騎手に会ってインタビュー出来る紙面がありました。私は駄目もとで応募したところ当選。憧れの吉永騎手との対談が実現したのです。思った通り彼は朴訥でしたが実に人間性を感じさせる人でした。

一方、当時みち子さんも競馬記者として活躍していましたが、吉永騎手の男らしい騎乗ぶりにすっかり惚れ込んでいたようで、先妻の奥さまを病気で亡くされ落ち込んでいた彼を助けたいという気持ちで一杯でした。お母様の反対を押し切って押しかけ女房同然に再婚を果たします。吉永騎手が三冠馬騎手となった菊花賞での騎乗ぶりを批判され時、私は彼のレース振りを弁護する手紙を出したのですが、その礼状をくれたのが妻みち子さんでした。

吉永騎手が毎朝枕の下に置いた私の手紙を見てから調教に出かける様が書かれていました。それ以来、私はみち子さんの作家としての才能を認め、陰ながら応援して来ました。「気がつけば騎手の女房」以来、みち子さんは期待通り次から次へと作品を書き続けました。みち子さんが一流の作家として世に出たのは当然です。そのうちコメンテイターとしても高い評価を受けたのは周知の通りです。そのうえ彼女は母親としても苦労されて来ました。

みち子さんとはその後も年賀状などの交換が長い間続いていましたが、私が病に倒れてからは文通が途絶えています。多分私が引っ越し先を知らせていないのかも知れません。ごめんなさい。来年はあらためて連絡させていただきますね。健康に気をつけられ益々ご活躍されることを祈っています。
(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

↑このページのトップヘ