集団的自衛権の議論を通じて、
どんどん日本が「戦争の出来る国」へと
突き進んでいることを憂えています。
2年前、私は京都新聞のコラム「現代のことば」に
「平和憲法こそが日本を守る」という原稿を書きました。
この原稿を書いたのは、世界で唯一「二度と戦争をしない国」を誓い、
専守防衛を宣言してきた日本だからこそ、他の国に安心感を与え、
また世界から戦争がなくなる一筋の光として
一目置かれてきたと言いたかったからです。

その国が、世界のどこであっても、事と次第では戦争に参加したり、
武器を輸出しようとしています。
日本だけは自分から戦争を仕掛けたりはしないという
信頼感が失われた時、どうなるのか?
私は毎日心配しています。
母親に手を引かれ、戦火の中を逃げ惑った者の思いを、
ぜひ知ってほしいと思いこのブログで紹介することにたしました。
2
年前のものですが、今も少しのぶれはありません。



平和憲法が日本を守る

1945年3月10日夜、5歳の私は母に手を引かれ、
熱風の中を隅田川の方向に逃げ惑っていた。
ゴーッという音と暗闇の中に浮かび上がるオレンジ色の炎が忘れられない。
今考えれば、母は水のある場所を求め本能的に走っていたのだと思う。
背中には2歳の妹を背負い、手荷物は何一つ無かった。
3人とも防空頭巾だけは被っていた。
何処でどういう風にして夜を過ごしたかは全く覚えていない。
ただ、夜が明けて防空壕に戻ると潰れた穴から白い煙が上がっていた。
川に横たわる死体、電線にひっかかって揺れていた黒く焼け爛れた衣服。
それらが子供の脳裏に焼きついたまま今に至っている。
私はぎりぎりではあるが、あの東京大空襲の恐怖を体験しているのだ。

しかし、70歳未満の人はあの恐怖感を味わっていない。
「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」どころか
もともと熱さを知らない世代が政治を動かす時代になった。

終戦を迎えた時、こんなむごい戦争は2度としてはならないと誰もが思った。

第9条に代表される平和憲法は、ほとんどの人に歓迎された。

戦地で亡くなった人も
本当は戦いたくなかった、

死にたくなかった。

訳も分からず焼き殺された非戦闘員に至っては、
ただただ被害者であった。


日本の平和憲法は、戦争によって命を落とされた方々の

無念の叫びが残してくれたものである。

この憲法を2分の1以上の賛成者がいるからといって

変えていいものだろうか。

51人が賛成したら、

49人の反対者がいても強行するという考え方は

「好きなようにしたい」という為政者の欲望である。

簡単に変えてもらっては困るから

3分の2というハードルを設けていることを真摯に受け止めて欲しい


核廃絶という問題にしても、
世界で唯一の被爆国である日本が旗を振らなかったら
誰がリードできるのだろう。
アメリカ、ロシア、中国がいくら核廃絶を唱えても、
自ら核を破棄しない限り説得力は無い。
日本が被爆国であり、核を保有していない国として、
お互いが廃絶に向かうよう説得するくらいの政治家が出て来て欲しいと思う。

山県有朋は、明治2年から始まった廃刀論議を元

明治9年に廃刀令を建議し、発令した。
士族の反対もあったが、
明治3年にまず庶民の廃刀を決め
4年には散髪脱刀令を出し、段階的にことを進めた。
アメリカの銃保有に関わる事件を見るにつけ、
この点については山県有朋に感謝したくなる。
人は武器を持てば気が大きくなり、使いたくなる。
牙をむかず、毒を持たないこと、
そして相手の立場をも考えられるやさしさを持つことこそ、
最良の防御ではないだろうか


日本人は言うべきことは言っても、
決して戦いを仕掛けないという
安心感を与えることが大切である。
勇気がいることではあるが世界から戦争を無くすにはこれしかないと思う。
「甘っちょろい、子供のような理想論を言うな」と
馬鹿にされるのは覚悟の上で訴え続けたい

(
京都造形芸術大学 教授・演劇プロデューサ 橘 市郎)