一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

2016年10月

10月22日、東京で日劇の制作者同窓会がありました。
「日劇がクローズしてから、もう35年も経っているので、
今回が最後になるかもしれない」
という幹事のお誘いに心を動かされ、日帰りで行ってきました。
10人の参加者のうち、一番若い人で70歳、
最高齢の人で82歳という高齢者の集まりでした。
確かに鬼籍に入られた方も多くなり、
これからの開催が難しくなる気もしないでもありませんが、
この日出席した人はみんな元気でした。

最高齢の千地博さんは今でも山登りをしているとのこと、
日劇では民謡のショーを手がけて活躍されました。
演出の日高仁さんは、斬新な演出で注目され、作詞家としても有名です。
広田康男さんは名舞台監督で、演出家になってからも
五木ひろし、小林旭といった人の演出を担当していました。
宇田良弼さんは社員プロデューサーでしたが、
後に海外室長として「レ・ミゼラブル」や
「ミスサイゴン」の上演権を確保しました。
オリエンタルランドの初代エンターテインメント部長でもあります。
大貫勇次さんは私と同期で交互に制作を担当していた仲です。
彼は東宝退職後、宇田さんのあとを継いで、
オリエンタルランド代目エンターテインメント部長となり、
その後シアターアプルの支配人も勤めました。
松下洋さんは、社員プロデューサーを勤めた後、
帝劇や宝塚劇場の支配人になりました。
田口豪孝さんは日劇最後の契約プロデューサーですが、
現在も演劇部のエグゼクティブ プロデューサーとして大活躍しています。
特にジャニーズ事務所とのパイプは強固です。
鈴木七渡さんは社員プロデューサーとして、
日劇や日劇ミュージックホールなど幅広く担当されました。
島田誠さんは舞台監督として活躍、
一時私が立ち上げた制作会社にも所属していました。
ざっとこの日の出席者をご紹介しましたが、
共に苦労した仲間たちだけに、いろいろなエピソードが飛び出し、
笑いが耐えませんでした。
これから、日劇のことを語れる人がどんどんいなくなるのは寂しいですね。

日本のショービジネスを牽引していた日劇。
そこで精一杯青春のエネルギーを発散させていた男たちの集まりは、
なかなかの盛り上がりを見せていました。
ここで日劇が元気だった頃の様子が見られるテレビ番組をお知らせします。
実は宇田良弼さんは、コント作家としても活躍された方で、
コント55号育ての親としても知られています。
もっともコント作家としては、京田勝馬というペンネームで書かれていたので、
宇田さんと京田さんが同一人物だと知っている方は少ないかもしれませんね。
宇田さんはもともと喜劇がやりたくて東宝に入られたそうですから、
コント作家が本業だったのかもしれません。

実は、1123日に「コント55号結成50周年記念番組」が1時間半、
オンエアーされるそうです。
BS
のどこかを確認し忘れましたが、その番組に宇田さんが出演するんです。
「黒子のようにコント55号を支えていた人が、今正体を現す」
といった興奮を覚えます。
このブログを読んでくださった方は必ずチャンネルを回してください。
会が終わった後、宇田さん、松下さん、大貫さん、田口さんの人は
新幹線が出発する直前まで、喫茶店で付き合ってくれました。
日劇を通じて同僚となった出会いを、感謝せずに入られない40分でした。

(達人の館 代表 橘市郎)

 


先週末、13日~15日は東京に行っていました。
13日は日本文化藝術財団の理事会に出席後、林部智史コンサートを鑑賞。
14日はインターナショナル・カルチャーの松野正義さんと歓談後、
  映画「君の名は」を鑑賞。夕方からは指揮者の星出豊さんと夕食。
15
日はソプラノの川越塔子さん出演の「椿姫」を鑑賞。
  新幹線の時間まで昭和音楽大学の武涛京子さんと雑談
と、めまぐるしい3日間でした。

中でも星出さんとはお寿司屋で時間、
喫茶店2時間、計時間ぶっ通しで話しました。
彼は高校の年後輩で、高校時代から一緒にオペラをやっていました。
星出さんは中学、高校と演劇をやっていて、
年生くらいからオペラに関わったと記憶しています。
その後、彼は指揮者への道を歩み始めるのですが、
私が早稲田の卒業公演で
オペラ「イドメネオ」(旧文京公会堂)を制作、演出した時、
指揮をしてくれました。
その年後にはパイジェルロの
「セヴィリアの理髪師」(紀伊国屋ホール)でも
コンビを組んだのです。

私が東宝と契約してからは、別々の道を歩み始めるのですが、
「オーケストラで映画音楽を聴く夕べ」(共立講堂)や
「魅惑の映画音楽」(日劇)でも彼に指揮をお願いしました。
逆にオペラ「安寿と厨子王」(浅草公会堂)では、
星出さんが声をかけてくれて、
久しぶりに演出をさせてもらいました。

2000年に京都造形芸術大学に赴任した私は、
春秋座の流れが出来上がった2004年、東京に戻ることになります。
早稲田の同級生、広渡勲さんから誘われ赴任したのが
昭和音楽大学だったのですが、
そこには学長の五十嵐喜芳先生、指揮者の星出豊先生がいたのです。
アートマネージメントを教えながら演奏室長を務めることになった私は
ここで再び星出さんと一緒に仕事をすることになりました。
つまり彼とはなんだかんだと言って
60年の付き合いの歴史があるんですね。
私が京都に戻ってからはなかなか会えず
先月、突然電話がかかって来て、
「上京した時にはぜひ、メシでも喰いましょう」
となったわけです。

積もり積もった話をしたのですが、
彼は台本、指揮、演出をひとりで努めた
「いのち」と言う長崎市民オペラを地元で上演。
この作品が新国立劇場の招待公演に取り上げられ、
ジャスラックの賞もいただいたと報告してくれました。
学歴社会と言われるクラッシック音楽界において、
決してエリートコースとはいえない道を歩みながら
「オペラの指揮者と言ったら星出豊が一番」と言う
評価を受けるようになった彼の精進ぶりには頭が下がります。

ドイツに留学して身に着けた技術に、
自分の信念を加味した彼の指揮ぶりは多くの人々を引き付けています。
教育者としても学生から慕われている彼が、
これから果たす役割は大きいと思います。

1年であっても先輩は、先輩ですから」
と立ててくれる偉大な後輩を横にして、
飲めないはずの酒を付き合っていた私でした。


(達人の館 代表 橘市郎)

10日、「レ・フレール スペシャルコンサート」が行われた日に、
Verdiというコーヒーショップが
京都造形芸術大学の1階にオープンしました。
Verdiは下鴨に本店がある知る人ぞ知るコーヒーの名店です。
大階段のすぐ南側にある展示スペース跡に出店したため、
10日は春秋座に見えた方でいっぱいだったようです。

こちらのオーナー続木義也さんは
進々堂の社長 続木創さんの弟さんです。
進々堂の社長さんには春秋座オペラで協賛していただき
大変お世話になりましたし、
下鴨本店には何回かお邪魔していたので、ご挨拶したところ、
「ここにはピアノもありますし、
天井も高いので何か催し物をしたいのですが、
アイディアをいただけませんか?」と言われました。
「ここの響きならマイクなしでも行けそうですね。
ちょっと考えてみます」と言って日後に
Verdi サロン・ライブのご提案」を出させていただきました。
IMG_8543
大学の中にある劇場として、春秋座があるように、
大学の中にあるコーヒーショップとして位置づけること。
音楽学科がない芸術大学として、
音楽家を目指す若いアーチストが演奏できる場所を提供すること。
ギャラではなく入場料収入をある比率で店と出演者で分け合うこと。
時にはジャズやポップスなどジャンルにこだわらずプログラムを組むこと。
タイミングや志によって若手ミュージシャンと同じ条件で出演してくれる
ビッグアーチストも歓迎すること。
などのコンセプトをお伝えしたのです。
すると日で「これでぜひお願いします」と
ご連絡をいただきました。

とんとん拍子に話が進み、
2016年度は1113日(日)、1126日(土)、1223日(祝)の3日間、
試験的に開催することになりました。
私の頭の中には堀川音楽高校から
ストレートで東京芸術大学の声楽科に入学し、大学院に進学した
井上大聞さんの存在が浮かんでいました。
彼は稀に見る美声で、高校の卒業演奏会、有志による若手演奏会
そして京都芸術祭のデビューコンサートと
圧倒的な存在感を示していました。
大学院でも数多くのオペラに起用され、
将来を嘱望されるバリトン歌手です。
こういう人が多くの人に認知されるためには、
コンサート活動だけではなく身近にお客様と接し、
その素晴らしさをアピールする必要があると私は思っていたのです。
彼は東京に住んでいますが、
12
23日には京都に戻ってくるということを聞き、
声をかけたところ出演を快諾してくれました。

次に、これからの事もあり、彼と共にデビューコンサートで
才能を示していたヴァイオリンの冨家聖香さんを紹介してもらい、
出演を依頼したところ、彼女も喜んで参加してくれることになりました。
彼女は1113日に登場してくれます。
お二人ともお若いので、1126日は無理を言って
「江藤ゆう子 昭和を歌う」で御馴染みの江藤ゆう子さんに
友情出演していただくことにしました。
彼女には、今回はシャンソンやジャズ、
ポップスなどを中心に歌っていただきます。

あっという間に、今年度3回分のラインアップが決まったのも
続木オーナーの決断と出演を快諾してくれたアーチストの皆さんのお陰です。
おいしいコーヒーやケーキをいただいた後、
素晴らしいアーチストの演奏をぜひ楽しんでいただきたいと思います。

詳細については
Verdi 075-746-4310 にお問い合わせください。

10
日後くらいにはチラシも出来ていると思います。
フライング気味の情報でした。

(達人の館 代表 橘市郎)


今、ヨーロッパの各国が
難民を受け入れるか拒否するかで揺れています。
アフリカで内戦をはじめとする戦争が今ほど激化する前は、
どの国も難民を当然のように受け入れていました。
人道的にそうするのが当たり前だったように思います。
それが今や国の行方を左右する大問題になっています。
余りにもその数が多いからです。
受け入れるべきか、受け入れないべきかは
私などが、遠くから軽々しく言えることではありません。
考えるべきは、難民の皆さんが、
何故こうも増えたのかということです。

この人々は、間違いなく戦争によって、町を破壊され、
命を奪われる恐怖から逃れようとして
難民にならざるを得なかったのです。
如何に貧しくとも故郷が平和であったなら、
その場で平安に暮らしていたことでしょう。
難民と呼ばれる人々は、ほとんどが庶民であり、
戦争に巻き込まれた被害者なのです。

「戦争さえなければ!」と
不条理に怒りを覚えているに違いありません。
やはり元凶は戦争です。
如何に「正義の戦い」と言っても
戦争がもたらす不幸は庶民に降りかかってきます。
どうして、こんなことが繰り返され、
停戦が実現しないのでしょうか。
歴史的な因縁、権力者の思惑、各国の立場、
いろいろ複雑なことが絡んでいるとはいえ、
素直に現実を考えた時、私は子供のように思いました。
「武器、弾薬をアフリカに送りこまないことだ」と。

アフリカで日々戦いをしている兵士たちが
武器や、弾薬を作っているはずがないとすれば、
これらは外部から送り込まれているはずです。
各国が武器輸出禁止を実行すれば、戦争は治まらないまでも、
日本の戦国時代の戦いみたいにならざるを得ません。

日本はかつて、専守防衛を唱え、
武器弾薬を輸出しないと公言していました。
ぜひ、世界から戦争を無くす旗振りを日本がして欲しいと思います。
「攻撃は最大の防御なり」と言う言葉は、
現代では、ルールのあるスポーツの世界でのことです。
「こちらからは、絶対先に攻撃しない」
と宣言することが最大の防御だと私は思います。

どうか、儲かるからといって、
戦争が行われている地に武器弾薬を送り込むという、
悪魔のような行為はしないでください。
難民をこれ以上増やさないためには、
戦争をやめさせるという根源的なことを実現させなければなりません。
文字通り「武器よさらば!」です。

(達人の館 代表 橘市郎)

↑このページのトップヘ