一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

2018年01月

1月22日、23日は元宝塚の上原まりさん
広報のため京都に来てくれました。
所属する事務所の社長である松野正義さんと一緒に、
京都新聞(22日)、KBS京都(23日)と回りましたが、
新聞の取材記事は多分月に入ってからになると思われますので、
今日はテレビ出演の際に盛り上がったことをご報告したいと思います。

上原さんに出演してもらった番組は
マッハ文朱さんがメイン・キャスターを勤める
おやかまっさん」でした。
分間筑前琵琶で「平家物語」の聴き所を生演奏した後、
インタビューを6分間程受けるというものでした。
着物を着て、琵琶持参の出演はかなりハードでしたが、
まりさんは快く引き受けてくれたのです。

楽屋に着くとリハーサル中にも拘らずマッハさんが挨拶に見えました。
お嬢さんが宝塚に在籍していることから
大先輩に当たるまりさんに敬意を示してくれたのでしょう。
お互いに挨拶を交わした時、
マッハさんが社長の松野さんを見て「あっ!」と声を上げました。
松野さんは80歳を超えた私の先輩ですが、
かつて赤坂にあったクリスタル・ルームや
コルドン・ブルーでショーを企画していました。
その時マッハさんもヶ月出演していたと言うことでした。
もう30年も前のことをマッハさんはちゃんと覚えていたのです。
松野さんも勿論覚えていたのでしょうが、
あえて事前には伝えていなかったようです。

私もマッハさんが日劇に出演した時のことは覚えていますが、
別のプロデューサーの担当だったので敢えて伝えていませんでした。
でも、急に昔話になって「そうだったんですか!」と盛り上がりました。
まりさんも、「マッハさんが芸能界デビューした時から、
宝塚の男役にぴったりと思っていました」
などと言ったものですから、雰囲気はいっぺんに友好ムード。
本番がうまくいったのもこういう前段のお陰もあったと思います。
芸能界のこういう繋がりも悪くないですね。

今回、番組出演の機会を与えてくださった
KBS京都のみなさまに感謝したいと思います。



今週の27日(土)、28日(日)は
京都造形芸術大学 通信教育部の授業が控えています。
ほぼ丸1日がつぶれるハードな集中授業ですが
「オペラと歌舞伎」をテーマに、春秋座の見学もある、
楽しい授業をしたいと考えています。

大阪芸術学舎では違うテーマで何回かやってきましたが、
京都でやるのは初めてです。
定員いっぱいの40名の方が参加してくださるので
頑張らねばと気合を入れています。
またブログで報告させていただきたいと思っています。

(一般社団法人 達人の館  代表 橘市郎)

1月14日に行われたレ・フレールと
京フィルのジョイント・コンサートは超満員の盛況でした。
1部の合同演奏では、指揮者の井村誠貴さんが
レ・フレールの感性を理解してくれて、
若い京フィルのメンバーを上手くリードしてくれたと思います。
想像していた以上に双方がいい刺激を受け、成果を挙げてくれました。

2部はレ・フレール単独のステージで、
のびのびとエネルギシュな演奏を聴かせてくれました。
お二人のオリジナルを中心にしたプログラムは、
途中に静かでメロデイックな曲がはさまれ、
後半のブギウギの迫力がいつも以上に激しく感じられました。

鳴り止まない拍手にアンコールが続き、
予定の終演時刻が大幅に遅れたため、
帰りの新幹線を乗車変更せざるを得ませんでした。
盛り上げてくださったお客様、本当にありがとうございました。



1月17日は阪神・淡路大震災の日でしたが、
実はわれわれ夫婦の結婚記念日でもあります。
震災後は静かな結婚記念日にしておりますが、
実はこの日はもうひとつ因縁がございます。
私たちは昭和40年1月17日に結婚式を上げ、
新婚旅行は熱海から伊豆~沼津と回りました。
熱海に着き夕食後、熱海の海岸を散歩しておりますと
有名なお宮の松がありました。
側に、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の
貫一とお宮にちなんだ記念碑があるので読んだところ、
新婚の二人は唖然としました。

こともあろうに、貫一とお宮は、まさにこの日、
1月17日に、ここで別れたと記されていたのです。
さすがにその偶然性にはびっくりしました。
不吉な予感がしたのも事実です。
でもお陰様で、その後52年間、まあ仲良くやっています。
カレンダーに関する不思議な偶然はまだ沢山ありますが、
今日はここまでにしておきます。

(一般社団法人 達人の舘  代表 橘市郎)

週間が早いですね。
年が明けてブログを更新したと思ったらもう週末です。
14
日に長岡京でレ・フレールと京フィルの
ジョイント・コンサートがありますが、
お陰様でチケットが完売しました。
今回は達人の舘が主催ではなく、
企画制作なので興行リスクは負っていませんが、
企画を買っていただいた会館にとっても、
出演していただくアーチストにとっても、
客席が満員になるのと空席があるのとでは全く気分が違います。
全ての関係者にとって充実感を与えてくださった
お客様に感謝したいと思います。
後は当日の演奏で、
お客様がどれだけ満足していただけるかということですね。
私自身もとても楽しみにしております。



さて、10日はロームシアターで開催された
和太鼓集団「TAO」の演奏会に行って来ました。
日頃お世話になっている高見株式会社の高見社長からご案内をいただき、
老夫婦で行ったのですが、圧倒されっぱなしの時間30分でした。
太鼓以外にもいろいろと趣向を凝らし、
質の高いエンターテインメントに仕上げられていたと思います。
彼らのストイックな鍛錬は半端ではないようです。
歴史の長い和太鼓集団「鼓童」にとっては強敵が現れたものですね。
もちろん鼓童には鼓童の色合いがあり、
日本の土の香りを感じさせて、私も大好きなのですが、
TAO
のスケールの大きさは認めざるを得ません。
これからはつの和太鼓集団がお互いに刺激し合って、
独特な個性を発揮して行ったらいいと思います。



11日に開催される「ホキ徳田の部屋」と
16日に開催される「上原まり筑前琵琶で平家物語を語る」の
公演のカラー広告が1月11日付け京都新聞の朝刊に載りました。
面での広告ですが大変良く出来た広告になっています。
京都新聞広告部でデザインしていただいたものですが、
さすがに上手いと感心しています。
ぜひご覧になってください。
そして本番当日いらしていただけましたら幸甚です。
公演とも達人の舘でチケットを扱っていますので、

TEL 075874-5931
FAX 075874-5932(FAX
にお申しいただきましたらチケットを郵送いたします。

(達人の舘 代表 橘市郎)

新年明けましておめでとうございます。
今年も現役を続けますので
どうぞご支援のほどよろしくお願い致します。

さて、少し古くなりますが、
昨年の有馬記念は北島三郎さんの持ち馬
キタサンブラックが引退を飾るレースで見事優勝を果たしました。
まだまだ元気に活躍できる馬を引退させるのは、
もったいない気もしますが、
これこそ北島さんの馬主としてのポリシーで、
ここまで頑張ってくれた愛馬への優しさが感じられます。

功なり名を遂げた馬を無事に引退させてやりたいという気持ちは、
単に賞金を稼いでくれた競争馬としてではなく、
わが子に対する親心のようなものです。
キタサンブラックはいい馬主に恵まれて幸せものでした。

北島三郎さんは日劇に昭和41年、42年、43年と3回出演されていますが、
1回目の昭和41年2月のショーは私が舞台監督を務めていました。
北島さんは当時、中野区の野方に住んでいらっしゃいました。
ご自宅で打ち合わせをした時、部屋に馬の写真が飾られていました。
北島さんはすでにこの時から馬主だったのです。
その馬の名前はリュウという名の馬でした。
北島さんは「龍」のつもりだったかも知れませんが、
オペラ好きな私には「トゥーランドット」に出てくる
やさしい女性リュウを連想させたので、
この馬の名前が記憶に残っています。

その北島さんのショーで私は、とんでもない事件に巻き込まれました。
北島さんがエプロンステージで「間一格剣友会」と立ち回りをしている時、
北島さんの刀の刃の部分が突然抜けてしまったのです。
柄だけでは立ち回りにもなりません。
客席は爆笑の渦。
喜劇のギャグとしては最高ですが、
シリアスな場面だっただけに芝居はぶち壊しです。

操作盤の脇でモニター・テレビを見ていた私は
どうしようもなく成り行きを見守っていました。
数秒後、剣友会の5~6人が血相を変えバタバタと引っ込んでくるや
「舞監(舞台監督)はいるか?」と怒鳴りました。
そして、私を見るや「良くも座長に恥をかかせたな!」と
私に殴りかかろうとしました。
それを間に入って止めてくれたのが、出番待ちをしていた
てんぷくトリオのリーダー三波伸介さんでした。
彼は体も大きく偉丈夫な人でした。
「舞台監督に当たったってしょうがない!」と私を庇ってくれたのです。

私もすぐに北島さんの楽屋に行き謝りました。
「刀のメクイが抜けたようです。申し訳ありませんでした。
小道具係の確認が甘かったとはいえ、舞台監督の責任です。
このようなことが2度と起こらないよう
徹底いたしますのでどうかお許しください」。
すると北島さんは
「珍しいことがあるもんだね。気にしない。気にしない」
と言ってくれたのです。
26
歳の新人舞台監督の苦い思い出ですが、
北島三郎さんの大らかさは今も忘れられません。
今から51年前のことですが、現在の北島さんを連想させる出来事でした。

(一般社団法人 達人の舘   代表 橘市郎)

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