一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

2019年08月

音楽評論家、黒田恭一さんをご記憶の方も多いと思いますが
、黒田さんがお亡くなりになってから今年で10年になります。
1119(火)には東京の王子ホールで
「黒田さんの思い出を語る会」が行われます。
あいにく以前から決まっていた仕事とぶつかり上京出来ず申し訳なく、
奥様にお手紙を出したところです。
黒田さんは早稲田大学の先輩でしたが
演劇専修ではなかったので初めはご縁がありませんでした。
黒田さんを紹介してくれたのは当時NHKに務めていらした演劇専修の先輩、
千代田昌弘さんでしたが初めてお会いした時から「オペラ好き」が伝わり、
何かとお手伝いさせていただくようになりました。

翻訳、原稿書きといった学生にはもったい無い仕事を
いくつか回していただいたのです。
卒業公演のオペラ「イドメネオ」は、黒田さんが薦めてくれた演目でしたし、
訳詩もギャラ無しで引き受けてくれました。
私が東宝の演劇部に就職してからは、良く日劇にも来てくださいましたし、
時々音楽会の会場でお目にかかりお話しの機会はあったものの、
仕事でのお付き合いは直接無かったように記憶しています。
でも、あの穏やかな人柄はいつも私の尊敬する先輩の一人でありました。
若い時に黒田さんに教えられたことは一生心に残っていくことでしょう。
ここのところ昔の名歌手のレコードやCDを聴きまくっていますが、
その度に黒田さんの文章や話し声が目と耳を通して蘇ってきます。
黒田さん、ありがとうございました。
「思い出を語る会」には出席できませんが、
あなたのことはいつも忘れませんからね。

(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)


全国高校野球の熱戦が連日中継されています。
高校生たちが全力で青春を爆発させて挑戦する
純粋な姿に感動をよばないではいられません。
私のような年齢のものにも、その情熱が伝わってくる日々です。
ところで破れたチームの選手たちが揃って
グラウンドの土を袋に入れて持ち帰る風景は、
いつから見られるようになったかご存知ですか?

実は私も子供の頃は野球少年だったので、
高校生になったら野球部に入る積もりでした。
しかし、当時私の体重は48キロ、身長も163センチで
とても野球をやる体格とは思えず、
9人制のバレーボールでバックライト、
変則トップ・サーバーを務めることにしました。
それでも野球への興味は忘れられず、
同級生のお兄さんから筑波大学付属野球部の話をいろいろ聞いていました。

その竹田さんはなんと戦後、再開されたばかりの全国高校野球大会で
東京代表として甲子園に出場していたのです。
と言っても戦後間もない当時、硬式の野球部はほとんど無く、
数少ないチームの中から東京代表として甲子園に遠征されたようです。
結果は1回戦で敗退。
その時グラウンドの砂を袋に入れたのが、今も引き継がれているようです。
これが事実かどうかはきちんと調べて欲しいのですが、
いかにも筑波大学付属高校の生徒がやりそうなことだと思っています。

でもこの行動はいかにもロマンを感じさせるし、
この大会が感動を与える一場面になっていることには間違いありません。

8月19日現在勝ち残っているチームは4校。
いずれが優勝しても初といわれます。
いつまでもこの大会が引き継がれていくことを祈りたいと思います。

(音楽・演劇プロデューサー    橘市郎)



 

入院する前に62キロあった体重が遂に48キロになりました。
1年半で14キロ減と言うのは我ながら驚きます。
糖尿病というのは量を食べれば血糖値が上がるし、
量を減らせば体重が落ちるし、とっても厄介な病気です。
でも考えてみれば高校3年の時は48キロだったし、
競馬の騎手やボクサーには同じくらいの体重の選手が大勢います。
もしかすると高校生以後の体重は贅肉だったかも知れません。
いえ、そう言う事にしたいと思っています。

「わあ、藤田菜七子ちゃんと同じ体重になっちゃた」
そう言いながら頑張っています。
痩せている者は先ず食料が少なくてすみます。
満員電車緩和に貢献しています。
でも重いものを持ったり、格闘でもすると不利は否めません。
やはり中肉中背が一番いいようですね。
何事も中庸が大切。
中立と言うことが尊ばれる意味が解ったような気が致します。
今日からは何事も前向きに考えて、現在出来る事に挑戦して行こうと思います。

*

私はこれまで、随分大勢の方と仕事をしてきたと思います。
ことに先輩と言われる方たちにはどれほどお世話になってきたかわかりません。
中には個性的な上司も随分いました。
でも良く考えてみると立派な人と言うのはどの方も、
決して威張らなかったように思います。
偉ぶると言うか、居丈高に接する人で
尊敬できるような人は一人もいませんでした。
仕事が出来、説得力のある方は皆んな謙虚でした。
人の話にじっと耳を傾け頷きながら、
自分はこう思うんだけれどと説得する方が多かったような気が致します。
威張らない謙虚さがどれほど人の心を動かした事でしょう。
力ずくで人を説得するのではなく、
思いを素直に語る姿勢が大切なのは、どの世界にも言える事なのでしょう。
この事は政治の世界でも同じだと思うのですが。

 (音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)





作曲家の尾上和彦さんからご招待いただき、
日に尼崎にある、
あましんアルカイックホール・オクトに行って来ました。
初めての会場でしたが大ホールはオペラホールで有名なところなので
一度は訪れたいと思っていました。

我が家からは時間かかりましたが、
都市計画がしっかりされていて素晴らしいところだと感心しました。
このコンサートは昨年、大阪でも行われましたが
今回はマリンバの岡村彩実さんが加わり、
指揮も粟辻聡さんが尾上さんから引き継ぐなどしていました。

尾上和彦さんが原爆投下の悲劇を鎮魂歌として作曲したこの作品は、
いつまでも忘れてはならない反戦歌です。
今またきな臭くなってきた世界に送る貴重なメッセージと思います。

児童合唱団、有志の方の合唱団、ソリストの皆さん全てが
力を合わせて歌っている姿に心打たれました。
願わくば歌詞がもっとはっきりと聴き取れたら良かったのにと思いました。
それにしても尾上和彦さんのヴァイタリティーにはいつも驚かされます。
私と同じように病と闘いつつ不屈の精神力で
活動を続けている姿に感動を覚えずにはいられません。
お互いにこれからも頑張りましょう!
力づけられた日、ありがとうございました。


春秋座の井出亮さんから依頼があり、
この来月21日に開催されるガラコンサートにちなみ、
春秋座オペラをふり返る原稿を書きました。
多分、近じか劇場のネットに掲載されると思います。
私自身、原稿を書いていて、
これほど大勢の方が関わっていただいたんだと改めて驚きました。
スタッフ、キャストともに錚々たる方たちが協力してくれているんですね。
私は記録を見ながら感謝しないではいられませんでした。
よく「10年一昔」といいますが我ながら、
この10年の積み重ねは貴重だと思っています。
よろしかったらぜひこのふり返りをお読み下さい。
文字数の制限をいただいたので多少端折っていますが
流れだけはお分かりいただけると思います。
そして921日、ステージでも
この流れがお分かりいただけますので春秋座にお出かけ下さい。
関係者一同お待ちしています。



(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)

 

ここのところ日本と韓国が
いろいろ対立しているようですが、本当に残念です。
私がお世話になった京都造形芸術大学には
韓国から沢山の留学生が来てくれています。
10年も前には毎年民族舞踊の来日公演が行われていました。
関空に出迎えに行くと彼らは実に礼儀正しく、
年長者を敬う習慣は日本人以上でした。

日韓のスタッフたちはお互いに協力して、
いつも良いものを作ろうとして一生懸命でした。
政治の世界での対立はともすると民間の親善を
ぶち壊してきた過去の事実が思い出されます。
日米の関係でも心ある人たちは、
その不幸を嘆いていた時代がありました。

お互いが仲良くしていくこと、
すなわち相手を理解し、尊敬することが
悪いことのように仕向けられていくことがないようにしたいものです。
素朴な一市民が先導され、
偏った考え方に流されることのないように、冷静になりましょう。
そして何者かに扇動されることの恐ろしさを身にしみて欲しいと思います

*

月のヴェルディ・サロン・ライヴは夏休みとなります。
これはお店の方針ですので良しとしたいと思います。
そのかわり日には女性歌手4人による華やかなコンサート、
15日には初出演の方の演奏をお届けいたします。
お店の入り口が新しくなったり、
いろいろな設備が良くなりますのでどうぞご期待下さい。

オープンから3年が経とうとしているライヴを
もっともっと充実させていくつもりです。
今後ともよろしくお願い致します。

 (音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

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