一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

2019年12月

今年ももう直ぐ大晦日ですね。
みなさんお忙しくなると思いますので
本日で今年の最終ブログとさせていただきます。
もう退院してから1年半経つというのに、
私はほとんど仕事らしいことをしていないのに気がつきました。
正しく年金老人といった感じです。
リハビリや法人解散といったことで精一杯だったとはいえ、
不甲斐ない日々だったように思います。
お陰様で体調は大分良くなったので、
来年は生産的な仕事を少しでもしようと思っています。

一方、この1年は温かい人情に触れたり、
感動せずにはいられない芸術を再認識する機会に恵まれました。
仕事に追われていた時には気が付かなかったことが、
新しい驚きをもたらしてくれたのです。
人生の締めくくりを考えるべき年齢を自覚しつつ、
1日1日を精一杯生きていきたいと思います。

さて、今年に起きた安倍内閣の不祥事は目を覆うばかりでしたね。
安倍さんも総理大臣に就任した当時とは
大分、状況が違ってきたのを感じていることでしょう。
誰もが長く権力の座についていると陥る、負の遺産が出てきたようです。
歴史を見ても明らかなように、回りの人たちがどうしても付度し始めるのです。
「過ぎたるは及ばざるが如し」とは良く言った言葉で、
引くべき時を間違えるとろくな事がありません。
然るべき時にバトン・タッチをしていく勇気が大切のような気が致します。
人間誰もが永遠ではないのです。
目の前の現実のみに捕らわれず、
本来の正論を実現させようと努力する政治家が出て来て欲しいものです。
今週は少し堅い内容で申し訳ないのですが、
来年は出来るだけ楽しい話題を取り上げたいと思っています。
それでは皆様、良いお年をお迎え下さい!!

(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎) 

 

1215日は、春秋座で行われた「鼓童」のコンサートに行って来ました。
坂東玉三郎さんが芸術監督をされていた時、
春秋座で公演していただいたご縁もありましたが
今回、演出された船橋裕一郎さんは京都造形芸術大学の卒業であり、
奥様はこのブログを管理してくれている佐藤和佳子さんなので
行かずにはいいられません。
その上プロデューサーの西村信之氏にも会いたいしで、
珍しく私は興奮していたようです。


開場と同時に客席に入った私は、余りにも用意してくれた席が
聴きやすいところなので落ち着きませんでした。
職業柄いつもは後方、鳥屋口脇で見ることに慣れていたからです。
私は皆さんの優しい心使いに感謝しないではいられず、涙ぐんだ程です。

5分遅れで開演しましたが、私は最初の1打を聴いた時、
これは単に打楽器の音とは違うと感じました。
船橋さんが先輩達から引き継いできた
発打ち」の精神が伝わって来たのです。
魂が込められたこの1打こそ、「鼓童」の音だと思いました。
打楽器は叩けば誰が叩いても音は出ます。
しかしその1打にはいろいろある。
そう思って次なる音を聴くにつけ、これは別格と思いはじめました。

アンサンブルとなって、この違いが顕著に現れてきました。
20代から70代、男性も、女性もいるメンバーが
一糸乱れずの演奏を聴かせてくれる。
それは生活を共にする人たちの協調でもありました。
何年か前、私が初めて「鼓童」の演奏を聴いた時には
これほどの感動をしなかったように思います。
静と動、強弱、速い遅いを巧みに配分した構成の上手さが
効果を上げたのでしょう。

船橋さん、あなたの構成は素晴らしかったと思います。
そしてメンバーの一人ひとりが一体となって、
一つの方向に向かっていくワンチームの強さが伝わってきました。
まるであのラグビーの日本チームが見せてくれた感動を
再度、味合わせてくれたようでした。

太鼓は誰が叩いても、叩けば必ず音がでますが、
高い精神性を伝えてくれる太鼓集団はそうありません。
「鼓童」がそういう存在であり続けてくれることを願わずにはいられません。
今日は元気を沢山いただいた日のような気が致します。
皆さん、ありがとうございました。

(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

 

 

詩吟の2代目鈴木吟亮さんが亡くなりました。
50年来のお付き合いでした。
女流吟詠家として和歌を詩吟で謡い一線を画してきた方でした。
私は初代の宗家から
代目の本名福井美行さんに至るまで大変お世話になりました。

私が日本劇場の舞台監督をしていた時、
馬場紀邦さんと言う歌手から頼まれ
「知人が三越劇場で詩吟の会をやるのに舞台監督を探している。
ぜひ手伝って欲しい」と言われ引き受けたのが初めでした。
詩吟に詳しくない私は、吟舞の途中でカーテンを閉める失敗をしたものの、
公演の時間だけは決められた中に収められたので、
宗家は大変喜んで下さり、それから長いお付き合いが始まりました。

代目で、当時吟子さんと呼ばれていたお嬢さんは私より少し年上でしたが、
年齢が近いだけにいろいろと気を使ってくたものです。
それから何年か経った頃、吟子さんの御主人と息子さんの美行さんが
私の卒業した中学、高校と同じだったことが分かり、
美行さんが就職する時は、
私が東宝退職後に立ち上げた会社に入社してきたのです。
優秀な人材だった彼は何年か後に一流の広告代理店に転職、
さらに自分の会社を立ち上げるなどしましたが、
現在は吟亮流の代目を継いでいます。
代目が宗家の間に行われた会は、
ほとんど私がお手伝いしてきたのですが、
どんなに新しい試みをしても、代目はそれを実現すべく努力されていました。
どんな時も穏やかで会員の方たちもそのお人柄に協力的だったように思います。

私が京都に移り住んでからは余りお手伝いが出来ず、
申し訳ない気持ちで一杯です。
でも吟亮流の記念式典にはいつも呼んでいただき光栄でした。
どうか安心してお眠り下さい。
今後は息子さんの代目が立派に跡を継いでくれると思います。
いろいろなことを体験してきたことが生きてくるものと思います。
それにしても寂しいなあ(合掌)

(音楽・演劇プロデューサー  橘市郎)

 

2日から4日まで久しぶりに上京して来ました。
昔は京都に行くことを上京すると言っていましたが
今は東京へ行くことを言うのが普通のようです。

今回はパトスという会社の忘年会に招待されて行ったのですが、
前回は体調が思わしくなく欠席しているだけに
何としても元気でいることを伝えたいと出かけていきました。
社長の壱岐空美子さんは、私が日産ミスフェアレディ―の
ナレーター教育をしていた時の教え子のひとりだったのですが、
その後50年余り何かとお手伝いしたり、
こちらがお世話になったりしてきました。

彼女はどちらかというと地味なタイプでしたが、
いつも自分の考えをぶれることなく実行し、
20年前に会社を立ち上げました。
そして着実に業績を上げ今日を築き上げたのです。 
社関係者の他で忘年会に招待されたのは、
私の隣りに座られたK氏と私の二人でしたが、
K氏も古いお付き合いの方でした。

お話を聞いてみるとパトスの発展に
一歩下がった立場で応援してくれた方でした。
私は忘年会に出席する直前に、
パトスの経営哲学を読みましたが
壱岐さんはまさにご自分の哲学を実践されていたのです。
何事も感謝することを忘れない精神が
講師一人ひとりに共感を与えているのが良く分かりました。
去って行く者、新しく入って来る者いずれにもエールを送る姿は、
皆から尊敬されている理由でもあったように思います。
「出藍の誉れ」という言葉がありますが、
壱岐さんが皆から愛されている姿はそういう感じでした。
これから益々生きてゆくことが難しくなっていく現代、
何が大切かを教えられた数日間でした。
壱岐さんありがとう。
命をいただいている限り一生懸命毎日を生きて行きたいと思います。
来年もまた元気にお目にかかれるように頑張ります。
壱岐さんもパトスも益々発展されますように祈っています!

 

(音楽・演劇プロデューサー  橘市郎)


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