一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

2020年05月

緊急非常事態が解除されそうです。
ほっとする一面がある一方、ここで緊張が解かれて第2波がやって来るのではという不安が付きまといます。一人ひとりが慎重に気を付けなければいけないと思います。学校での授業が再開されると同時に、今後の学年暦がいろいろと議論されています。そこで出てきたのが、欧米の9月入学式に合わせる案です。

今の時代にはその方が便利だという考えでしょうが、自然の季節は各国違うのです。私はそれぞれの季節にあった学年歴にすべきだと思っています。桜が満開の入学式、海水浴をしないではいられない夏休み、腰を落ち着けて勉強が出来る秋、クリスマスやお正月を堪能出来る冬休み。この間に各地の祭事や催物が伝統的に行われます。年間を通して歳時記が確立しているのです。

これが各国独特の文化というものでしょう。長年かかって培ってきたものを軽々しく変えるのは如何なものでしょう。私は各国が自然にあった対応をしてお互いがそれを認め合うのがいいと思っています。これは人間で言えばお互いに個性を尊重することに通じています。

新型コロナウイルスは確かに人間に試練を与えました。しかし、これも単純に憎い敵とは思わず人類に教訓を与えてくれたものと思えばプラス思考も生れてくるのではないでしょうか。自然界の空気がきれいになったとか、人類は協力し合わないと生き残れないという教訓を与えてくれたことなど貴重な体験として捕らえたいものですね。試練はまだまだ続きますが、辛抱強く耐えましょう。

(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)

 

宇田さんは私がお世話になった東宝演劇部の先輩であり、私の上司でした。私が契約者であるのに対し、宇田さんは社員プロデューサーとして活躍されていました。

一般の方はそのお名前をご存じないかも知れませんが、萩本欽一さん、綾小路君麻呂さん、故ポール牧さんなどの育ての親で、東京デズニーランドの初代エンターテイメイント部長といったら吃驚されることでしょう。

宇田さんはあくまでも東宝の社員である立場を守っていましたので、むしろ裏方として職務を全うされていたのです。 宇田さんは音楽に関しては私を立ててくださり、演劇部の課長としてニューヨークに勤務されている時には、お土産に「ミスサイゴン」、「ハロードーリー」、「ショーボート」などのCDをいただいたものです。
日本初演のミュージカル「グリース」の制作をやらせていただいたのは正しく宇田さんのお陰でした。

一方無類の競馬通で、私に競馬の面白さを教えてくれた恩人でもありました。
私の後輩、演出家の平林敏彦さんと3人で長いこと楽しんでいた単勝当てゲームが忘れられません。宇田さんは情熱家でゴール前の柵に沿って馬と一緒に走ったり、亡くなった後輩を送る時スクラムを組んで、「別れのワルツ」を斉唱することもありました。

私たちスタッフは温かい人柄を慕い、最近まで宇田さんを中心に集まっていましたがこのご時勢、それも中断しています。宇田さんは京都大学の出身なので、めぐり巡って私が京都に住むようになったのも何かのご縁だと思っています。

宇田さん、本当に宇田さんにはいろいろお世話になりました。身近に存在していた人の偉大さをともすれば気付かずにいた自分を恥じています。

コロナ騒ぎが落ち着いた時にはぜひまたお話しさせてくださいね。

(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

 

私より10年も先輩なのにお元気に活動されている宝田さん、今はお好きな麻雀も出来ず体力をもてあそばれている事でしょう。

宝田さんは私が日劇で舞台監督をしていた時から東宝映画のスターとして毎年正月公演に出演されていましたが、本当に苦労をともにしたのは、私が渋谷のジャンジャンで公演されたミュージカル「ファンタステイックス」の演出助手をした時からです。

演出の中村哮夫さんに声をかけられ、ミュージカルが大好きだった私は二つ返事で引き受けたものの、それはそれは過酷なものでした。稽古の時間といったら宝田さんの映画撮影が終わった後ですから、どうしても深夜になります。逆に関係者のほとんどが揃うのでいい稽古にはなりましたが、私は昼間日劇、夜ジャンジャン、合い間にアルバイトのクイズ作りというハードなもの。原宿の安宿に泊まる日が多かったのも懐かしい思い出です。

このミュージカルは「紀伊国屋演劇賞」をいただくと全国から声をかけられるようになり、旅公演で行動を共にすることが多くなりました。そんな訳で「フアンタスティックス」に対する宝田さんの思い入れは強く、私が京都の春秋座で仕事をするようになってからも売り込まれ、公演が実現したのです。

一方の私もこの作品が忘れられずプロデューサーの松江陽一さんと演出の中村哮夫さんのご了承をいただき新に全国公演を企画いたしました。宝田さんは多忙のためエルガヨ役は故・林隆三さんと横内正さんにお願いしたのですが、さぞや悔しかったと思います。でも「エルガヨ役は俺の持ち役だ」という自信があったようで、何もおっしゃらないのが印象的でした。

宝田さんは、「ファンタステイックス」でマット役を演じていた沢木順さんがプロデュースするクリスマス公演に出演するため毎年、大阪の心斎橋劇場に来られていました。ショーを見た後、楽屋にお尋ねすると何時も懐かしそうに迎えてくれるのです。今は麻雀が出来ないので何をしてストレスを解消しているのでしょうか? 戦争中の苦労話とともに、戦争は絶対にしてはならないと何時も力説している宝田さん、どうかお元気でまた関西にいらして下さいね。

(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)



私たち夫婦はもう結婚して55年になりますが、私の血液型がA、家内の血液型がBで全く性格が違います。喧嘩も良くしました。

1985年、茨城県で行われた「つくば科学万博」が行われた時、私は寺内タケシさんに声をかけられ、茨木パピリオンでの催物を企画制作しました。毎日が日替わりメニューですから、司会者にはかなりしっかりした人を起用する必要があります。そこでお願いしたのが玉置宏さんでした。
玉置さんは三橋美智也さんのショーの司会をしていた関係で以前から親しくさせていただいていたこともありました。

私たちは毎日のことなので雑談する機会も多く、ある時、妻との性格の違いを面白おかしく嘆いたことがありました。すると玉置さんが言いました。「橘さん、物は考えようです。川に仕掛ける網は距離があるほど捕れる魚が多いでしょ!」これには目から鱗が落ちると言うか、上手いことを言うな!と感心すること仕切りでした。

ニッポン放送で玉置さんが長らくやっていた「玉置宏の笑顔でこんにちは!」で何度となくイヴェントの紹介もしてもらいました。「横浜にぎわい座」のスタッフとしで教え子がお世話になったりもいたしました。人間味溢れる暖かい人柄は忘れられません。バランス感覚が大切なことを教えてくれた方でもあったと思います。
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5月3日は憲法記念日でした。今この時に憲法改正に執念を燃やしている総理大臣。政治家は多かれ少なかれ、自分が歴史上の人物になろうという功名心があるのは仕方ないとはいえ、70パーセント以上の民意を無視する神経は理解出来ません。

「本性現らわす!」この実態を見ても今のままがいいという人たち、いい加減目を覚まして下さいと言いたくなります。
それにしても平穏な日々が早くやって来て欲しいものですね。辛抱。辛抱。

(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

 

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