2020年05月
宇田良弼(京田勝馬)さんの事
宇田さんは私がお世話になった東宝演劇部の先輩であり、私の上司でした。私が契約者であるのに対し、宇田さんは社員プロデューサーとして活躍されていました。
一般の方はそのお名前をご存じないかも知れませんが、萩本欽一さん、綾小路君麻呂さん、故ポール牧さんなどの育ての親で、東京デズニーランドの初代エンターテイメイント部長といったら吃驚されることでしょう。
宇田さんはあくまでも東宝の社員である立場を守っていましたので、むしろ裏方として職務を全うされていたのです。 宇田さんは音楽に関しては私を立ててくださり、演劇部の課長としてニューヨークに勤務されている時には、お土産に「ミスサイゴン」、「ハロードーリー」、「ショーボート」などのCDをいただいたものです。
日本初演のミュージカル「グリース」の制作をやらせていただいたのは正しく宇田さんのお陰でした。
一方無類の競馬通で、私に競馬の面白さを教えてくれた恩人でもありました。
私の後輩、演出家の平林敏彦さんと3人で長いこと楽しんでいた単勝当てゲームが忘れられません。宇田さんは情熱家でゴール前の柵に沿って馬と一緒に走ったり、亡くなった後輩を送る時スクラムを組んで、「別れのワルツ」を斉唱することもありました。
私たちスタッフは温かい人柄を慕い、最近まで宇田さんを中心に集まっていましたがこのご時勢、それも中断しています。宇田さんは京都大学の出身なので、めぐり巡って私が京都に住むようになったのも何かのご縁だと思っています。
宇田さん、本当に宇田さんにはいろいろお世話になりました。身近に存在していた人の偉大さをともすれば気付かずにいた自分を恥じています。
コロナ騒ぎが落ち着いた時にはぜひまたお話しさせてくださいね。
(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)
バイタリティ溢れる宝田明さん
私より10年も先輩なのにお元気に活動されている宝田さん、今はお好きな麻雀も出来ず体力をもてあそばれている事でしょう。
宝田さんは私が日劇で舞台監督をしていた時から東宝映画のスターとして毎年正月公演に出演されていましたが、本当に苦労をともにしたのは、私が渋谷のジャンジャンで公演されたミュージカル「ファンタステイックス」の演出助手をした時からです。
演出の中村哮夫さんに声をかけられ、ミュージカルが大好きだった私は二つ返事で引き受けたものの、それはそれは過酷なものでした。稽古の時間といったら宝田さんの映画撮影が終わった後ですから、どうしても深夜になります。逆に関係者のほとんどが揃うのでいい稽古にはなりましたが、私は昼間日劇、夜ジャンジャン、合い間にアルバイトのクイズ作りというハードなもの。原宿の安宿に泊まる日が多かったのも懐かしい思い出です。
このミュージカルは「紀伊国屋演劇賞」をいただくと全国から声をかけられるようになり、旅公演で行動を共にすることが多くなりました。そんな訳で「フアンタスティックス」に対する宝田さんの思い入れは強く、私が京都の春秋座で仕事をするようになってからも売り込まれ、公演が実現したのです。
一方の私もこの作品が忘れられずプロデューサーの松江陽一さんと演出の中村哮夫さんのご了承をいただき新に全国公演を企画いたしました。宝田さんは多忙のためエルガヨ役は故・林隆三さんと横内正さんにお願いしたのですが、さぞや悔しかったと思います。でも「エルガヨ役は俺の持ち役だ」という自信があったようで、何もおっしゃらないのが印象的でした。
宝田さんは、「ファンタステイックス」でマット役を演じていた沢木順さんがプロデュースするクリスマス公演に出演するため毎年、大阪の心斎橋劇場に来られていました。ショーを見た後、楽屋にお尋ねすると何時も懐かしそうに迎えてくれるのです。今は麻雀が出来ないので何をしてストレスを解消しているのでしょうか? 戦争中の苦労話とともに、戦争は絶対にしてはならないと何時も力説している宝田さん、どうかお元気でまた関西にいらして下さいね。
(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)
名司会者 玉置宏さんのアドヴァイス