一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

2020年07月

「吉永みち子」、競馬好きな人はこの名前を見たら、ミスターシービーで3冠騎手になった故・吉永正人騎手の奥様である事がわかると思いますが、若い人にとっては作家でありコメンテイターであることの方が通りがいいかも知れませんね。

今日はみち子さんと私の繋がりを紹介したいと思います。
私が初めて競馬に出会ったのは帝国ホテルのレストランシアターの楽屋で、アサデンコウのダービー優勝を観戦した時ですから30歳近かったと思います。どちらかといえば奥手でした。しかし、骨折しながら3本脚でゴールした馬の姿に感動してすっかり競馬ファンになってしまった私は、生まれたばかりの長女を抱っこした妻を誘って中山競馬場に行ったのです。
その日はビギナーズラックと言うもので、何とホテルに1泊するほどのプラスでした。儲けさせてくれたのが吉永正人騎手。それ以来私は熱狂的な吉永ファンになってしまったのです。1頭だけ離れた後方から行って直線一気に追い込む大胆な騎乗は、正に薩摩男の魂を見た感じでした。

その頃の「競馬報知」に、ファンが好きな騎手に会ってインタビュー出来る紙面がありました。私は駄目もとで応募したところ当選。憧れの吉永騎手との対談が実現したのです。思った通り彼は朴訥でしたが実に人間性を感じさせる人でした。

一方、当時みち子さんも競馬記者として活躍していましたが、吉永騎手の男らしい騎乗ぶりにすっかり惚れ込んでいたようで、先妻の奥さまを病気で亡くされ落ち込んでいた彼を助けたいという気持ちで一杯でした。お母様の反対を押し切って押しかけ女房同然に再婚を果たします。吉永騎手が三冠馬騎手となった菊花賞での騎乗ぶりを批判され時、私は彼のレース振りを弁護する手紙を出したのですが、その礼状をくれたのが妻みち子さんでした。

吉永騎手が毎朝枕の下に置いた私の手紙を見てから調教に出かける様が書かれていました。それ以来、私はみち子さんの作家としての才能を認め、陰ながら応援して来ました。「気がつけば騎手の女房」以来、みち子さんは期待通り次から次へと作品を書き続けました。みち子さんが一流の作家として世に出たのは当然です。そのうちコメンテイターとしても高い評価を受けたのは周知の通りです。そのうえ彼女は母親としても苦労されて来ました。

みち子さんとはその後も年賀状などの交換が長い間続いていましたが、私が病に倒れてからは文通が途絶えています。多分私が引っ越し先を知らせていないのかも知れません。ごめんなさい。来年はあらためて連絡させていただきますね。健康に気をつけられ益々ご活躍されることを祈っています。
(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

7月19日(日)の日は競馬、大相撲、野球のテレビ中継で丸1日が過ぎてしまいました。
新型コロナで暗い日々を過ごしている中で元気をもらえた1日だったような気が致します。自分で選んだ好きなスポーツに全力を尽くしている人たちの情熱に、こちらまで熱くなりました。

人間にはもともと闘争本能があって、お互いに利益を得るために殺しあっていた時代がありました。いや現代においてもその名残はありますが、それを辛うじて押さえている代替行為がスポーツ競技です。相手を殺すような事をせずお互いに一定のルールの中で競い合い、人間の闘争本能を満たすのです。

人類が考え出した素晴らしい智恵だとは思いませんか?このスポーツ競技のお陰で私のような老人でさえ,平和裏のうちに血を沸き立たせることが出来るのです。確かにそれは仮想世界の出来事かもしれません。しかし、実際に自分が動かなくても、興奮しカタリシスを覚えるなんて人間だけが出来ることですよね。

テレビや電話が進歩し、パソコンが当たり前の情報手段になった今の時代、これを素晴らしいと思うと同時に、生の観覧体験が一層素晴らしいと思える時が、早くやってくることを期待したいですね。

(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)


最近は何処の店に行ってもアルコール消毒の備えがあります。
当然のように誰もがそれを利用しています。しかし薬品がこれほどお手軽に使われていて大丈夫なのでしょうか? 従来のように石鹸で丁寧に手を洗い、水で良くうがいするのでは駄目なのでしょうか?これほどアルコールが何処でも手軽に使われていると逆に弊害はないのでしょうか?

「毒をもって毒を制する」という考え方が本当にいい事なのか、副作用はないのだろうかと心配してしまいます。もともと「目には目を」という考え方もありますが、それが人間にとって良いことだったのでしょうか?

これこそ歳をとって消極的になった証拠かもしれません。夢と希望に満ち溢れている若者と80歳の老人とでは当然違った感覚を持っていることでしょう。でも少しでも地球を大切にし、人類が平和に共存共生して行くためには譲り合いの精神が必要です。素朴な片田舎の人たちのように労わり合いながら、自然とともに生きていく一生こそ人間味に満ち溢れているように思います。東京で生まれ育ち、京都に住むようになった私が厳しい自然の中で生活していく事は多分無理でしょう。

せめて経済最優先といった風潮には染まらずに素朴に生きて行きたいものです。

(音楽・演劇プロデューサー 橘市郎)


新型コロナ・ウイルスに苦しめられている最中というのに、今度は熊本、鹿児島、宮崎といった地域が大雨で大変な災害に見舞われています。
災害に見舞われた方たちのことを思うと、何も出来ない自分が不甲斐なく、胸が締め付けられます。被害にあわれた方たちにはお年寄りが多く、多分先祖代々その土地に育ってこられた方なのでしょう。どうかまずは身の安全を第一に避難されるよう祈っています。

今回の災害は天変地異とはいえ、もともとは人間が経済優先で地球を痛みつけてきた結果なのです。あちらこちらで行われている核実験。海を汚し続けてきたプラスティックごみ。地球が異常気象に陥らないはずがありません。全てがエゴに走る人間が引き起こした事と反省しない限り、地球の怒りは治まらないでしょう。

今こそ共存共栄が大切な時ではないでしょうか。自己中心に物を考えるのではなく、如何にしたらお互いが助け合えるのかを考える。相手の立場を尊重しながら、ともに生きて行くにはどうすればいいのか。何を譲り合えばともに生きて行けるのか?相手がコロナ・ウイルスであっても100パーセント抹殺するのではなく、共存共栄していくことを考えるのが「智恵」ではないでしょうか。

何事も一方が独り占めすれば、一方は文無しになります。やはり分かち合う事が必要なのでしょう。
「働かざるもの食うべからず」は資本主義の原則、共産主義は怠け者の温床、こうした極端な考え方からの脱却こそがこれからのテーマのような気がします。

(音楽・演劇プロデューサー   橘市郎)

 

このブログが更新される頃には、7月1日生れの私は80歳になっています。今までは年齢をあまり気にしていませんでしたが流石に我ながら年をとったものだと自覚しています。80歳は明らかに老人ですものね。

私は1939年3月に有楽町にあった日本劇場の舞台監督助手として就職いたしました。初仕事は引き割りカーテンが垂直に閉まっていくように先導する仕事でしたが、カーテンが閉まった途端にダンサーたちの香水の匂いに眩暈がしたものです。

ちょうど「ザ・ピーナッツ」のショーで私は華やかな舞台を下手の袖から見ていました。中でも私のお気に入りは「ジューン・ブライド」という曲で、それには「カトレア・シスターズ」という日劇専属の女性バック・コーラスが付いて下手の袖近くで歌っていました。うぶな私はそのうちの一人にすっかり魅せられてしまったのです。3月に就職して6月にはプロポーズしてしまったことになります。

相手の女性も睡眠不足で目を赤くしている私に目薬をくれたりしていたので、相思相愛と早合点していたのかも知れません。「善は急げ」ではありませんが、早速、担当課長に婚約を報告した途端「もう、うちの商品に手をつけたのか!」とそれは厳しいお叱りを受けました。もちろん清廉潔白なのですがそう思われても仕方が無いほどの幼稚さだったのです。

とにかく私たちは翌年の1月にささやかながら赤坂の健保会館で結婚式を挙げました。それから55年、我々夫婦はお陰様で55年一緒に生活してきました。いいこと悪いこと色々な事がありましたが、3人の娘に恵まれ今は幸せです。

先日「ザ・ピーナッツ」の特集番組がオン・エアーされていましたが、我々が結婚した経緯を聞いて直ぐにサインの入った「ジューン・ブライド」のレコードをプレゼントしてくれたことを思い出しました。この45回転のドーナッツ盤は今でも我が家の宝物となっています。宮川泰作曲、岩谷時子作詞の隠れた名曲が私に結婚を即断させてくれたと思っています。

ありがとう!「ジューン・ブライド」

(音楽・演劇プロデューサー    橘市郎)

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