一瞬の静寂

音楽・演劇プロデューサー・橘市郎のブログ。日々思ったことを綴っています。 東宝(株)と契約し、1973年にプロデユーサーに。1981年独立後は、企画制作会社アンクルの代表をつとめ、中野サンプラザからの委嘱で「ロック・ミュージカルハムレット」「原宿物語」「イダマンテ」を、会社解散後は「ファンタステイックス」「ブルーストッキング レデイース」などのミュージカルを制作。 2001年京都芸術劇場の初代企画運営室長。

カテゴリ: エッセイ

昨日、昭和音楽大学の客員教授 広渡勲さんと京都のホテルで会いました。
数日前、「同世代の友人が次々と亡くなるので、
明日はわが身という切実な思いがする。
元気なうちに京都の桜と紅葉を見たくなった」
と電話が入り突然京都にやって来たのです。

彼は早稲田演劇専修の同期生で何かと縁がある貴重な友人です。
学生時代は彼が博多から出てきて下宿していたので、
よく私の母親の手料理を食べにやってきました。
私の方も小奇麗な彼の下宿に押しかけ、
悪友と長時間麻雀をやったものです。
彼は自分ではあまり参加せず、
おいしいコーヒーをこまめに入れてくれました。

卒業公演では、一緒にモーツァルトのオペラ
「イドメネオ」の初演を成し遂げました。
彼はもともと邦楽をやっていて歌舞伎に詳しく、
オペラに関しては私に引っ張り込まれた感じでした。
私は逆に彼から歌舞伎についていろいろ教えてもらったものです。

大学を卒業する直前に、
黒田恭一さん(著名 なオペラ評論家ー故人)から紹介された
演出助手のアルバイトに彼を誘って参加。
私は2公演目の途中でやめましたが
彼はそのままスタッフクラブに所属していました。
後に彼がオペラ制作の世界に入るのも
この時のご縁があったからだと思います。
その後、私は東宝演劇部と契約するのですが、
何とある日東宝本社で彼とバッタリ会うのです。
彼も東宝の演劇部に入っていたんですね。

彼が第1演劇部、私が第2演劇部だったので気がつかなかったのです。
帝劇の杮落とし公演「スカーレット」や
ミュージカル「歌麿」ではいっしょになりました。
やがて彼はNBSという招聘業務の会社で華々しい活躍をします。
世界の一流ミュージシャンと親交を重ね、
日本にはイサオが居ると信頼を勝ち得ます。

春秋座が軌道に乗り、劇場運営が先生方の研究組織に委ねられた時点で、
私は東京に戻るのですが、
その時、昭和音楽大学に誘ってくれたのが、広渡さんでした。
彼はNBSを辞め、大学でアートマ ネージメントを教えていたのです。
性格も生き方も全く違うのに何かと縁があるんですね。
長々と書いてきましたが、そんな彼が弱気になっているので
心配して会いに行ったのですが、彼は全く元気でした。
「前の日に京都に入って、今日は平等院~醍醐寺~伏見稲荷と回って来た」。
しかも伏見稲荷では頂上まで歩いたというんです。
そして、今日も清水寺~高台寺~円山公園~寺町通りと移動。
三嶋亭ですき焼きを食べて帰京するとメールが入りました。
大丈夫、彼はまだまだ生き続けます。
あの軽いフットワークはどう見ても50代です。
私も彼にあやかり元気にやって行きたいと思います。
達人の館の企画を彼はほめてくれました。
また何かでご縁が出来るかもしれませんね。

達人の館 代表 橘市郎

集団的自衛権の議論を通じて、
どんどん日本が「戦争の出来る国」へと
突き進んでいることを憂えています。
2年前、私は京都新聞のコラム「現代のことば」に
「平和憲法こそが日本を守る」という原稿を書きました。
この原稿を書いたのは、世界で唯一「二度と戦争をしない国」を誓い、
専守防衛を宣言してきた日本だからこそ、他の国に安心感を与え、
また世界から戦争がなくなる一筋の光として
一目置かれてきたと言いたかったからです。

その国が、世界のどこであっても、事と次第では戦争に参加したり、
武器を輸出しようとしています。
日本だけは自分から戦争を仕掛けたりはしないという
信頼感が失われた時、どうなるのか?
私は毎日心配しています。
母親に手を引かれ、戦火の中を逃げ惑った者の思いを、
ぜひ知ってほしいと思いこのブログで紹介することにたしました。
2
年前のものですが、今も少しのぶれはありません。



平和憲法が日本を守る

1945年3月10日夜、5歳の私は母に手を引かれ、
熱風の中を隅田川の方向に逃げ惑っていた。
ゴーッという音と暗闇の中に浮かび上がるオレンジ色の炎が忘れられない。
今考えれば、母は水のある場所を求め本能的に走っていたのだと思う。
背中には2歳の妹を背負い、手荷物は何一つ無かった。
3人とも防空頭巾だけは被っていた。
何処でどういう風にして夜を過ごしたかは全く覚えていない。
ただ、夜が明けて防空壕に戻ると潰れた穴から白い煙が上がっていた。
川に横たわる死体、電線にひっかかって揺れていた黒く焼け爛れた衣服。
それらが子供の脳裏に焼きついたまま今に至っている。
私はぎりぎりではあるが、あの東京大空襲の恐怖を体験しているのだ。

しかし、70歳未満の人はあの恐怖感を味わっていない。
「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」どころか
もともと熱さを知らない世代が政治を動かす時代になった。

終戦を迎えた時、こんなむごい戦争は2度としてはならないと誰もが思った。

第9条に代表される平和憲法は、ほとんどの人に歓迎された。

戦地で亡くなった人も
本当は戦いたくなかった、

死にたくなかった。

訳も分からず焼き殺された非戦闘員に至っては、
ただただ被害者であった。


日本の平和憲法は、戦争によって命を落とされた方々の

無念の叫びが残してくれたものである。

この憲法を2分の1以上の賛成者がいるからといって

変えていいものだろうか。

51人が賛成したら、

49人の反対者がいても強行するという考え方は

「好きなようにしたい」という為政者の欲望である。

簡単に変えてもらっては困るから

3分の2というハードルを設けていることを真摯に受け止めて欲しい


核廃絶という問題にしても、
世界で唯一の被爆国である日本が旗を振らなかったら
誰がリードできるのだろう。
アメリカ、ロシア、中国がいくら核廃絶を唱えても、
自ら核を破棄しない限り説得力は無い。
日本が被爆国であり、核を保有していない国として、
お互いが廃絶に向かうよう説得するくらいの政治家が出て来て欲しいと思う。

山県有朋は、明治2年から始まった廃刀論議を元

明治9年に廃刀令を建議し、発令した。
士族の反対もあったが、
明治3年にまず庶民の廃刀を決め
4年には散髪脱刀令を出し、段階的にことを進めた。
アメリカの銃保有に関わる事件を見るにつけ、
この点については山県有朋に感謝したくなる。
人は武器を持てば気が大きくなり、使いたくなる。
牙をむかず、毒を持たないこと、
そして相手の立場をも考えられるやさしさを持つことこそ、
最良の防御ではないだろうか


日本人は言うべきことは言っても、
決して戦いを仕掛けないという
安心感を与えることが大切である。
勇気がいることではあるが世界から戦争を無くすにはこれしかないと思う。
「甘っちょろい、子供のような理想論を言うな」と
馬鹿にされるのは覚悟の上で訴え続けたい

(
京都造形芸術大学 教授・演劇プロデューサ 橘 市郎)


高倉健さん、菅原文太さんと
昭和に大活躍した映画俳優が相次いで亡くなられました。
お二人とも仕事でご一緒したこともお話したことも無かったのですが、
寂しい気持ちが、こうも迫ってくるのは何故なのでしょう。
大スターというのは、自分の生きてきた時代の象徴だからなのでしょうか?
シリーズで上演している「江藤ゆう子 昭和を歌う」は
その時代背景をナレーションで紹介しながら、
ヒット曲を聴いていただく構成になっていますが、
映画もその時代を写すように個性ある俳優さんが登場してきました。

高倉さんも菅原さんもやくざ映画からスタートしたのですが、
お二人とも、真面目で、温厚で物静かな方だったようです。
拳銃を撃ちまくったり、刀を振り回すだけではなく、
義理と人情に熱い男を演じるには、
にじみ出てくるやさしさを持っていないと
人を引きつけることが出来なかったのでしょう。

お二人とも平和主義者だったと聞きますが、
特に菅原さんは亡くなる前に
「絶対に戦争をしてはいけない」
「唯一の被爆国である日本が核廃絶を訴えるべきだ」と
遺言のようにおっしゃっていたそうです。
私もまったく同感なので、
惜しい人を亡くしたと残念でなりません。
1週間後に迫った衆議院選挙を前に
もう一度菅原文太さんの思いを胸に刻みたいと思っています。

戦争が始まる時というのは一部の人の愚かな決断がきっかけです。
それは権力を持ちすぎた人の傲慢さが引き金になるのです。
行け行けどんどんとアクセルだけを吹かすような運転は事故の元です。
とにかく暴走傾向を感じ たら、ブレーキを掛けなくてはいけません。
片寄ったバランスを見逃していると、
とんでもない事が起きる危険があります。
菅原さんの遺言を大切にするためにも、
投票を棄権してはいけないと思います。
経済、景気以上に、危うい臭いを感じることが必要なのではないでしょうか。

                              
                               達人の館プロデューサー:橘市郎

京都造形芸術大学の創立者である元理事長徳山詳直先生が
1020日に亡くなられました。

風邪をこじらせて今年の卒業式や入学式に出られなかったのですが、
新年早々には「病院から抜け出してきました」と元気にご挨拶されていたので、
まさかと言う感じで、すぐには信じられませんでした。80歳になられた時も
「もういい加減に引退しろと言う人もいるかもしれないけれど、
まだまだ働かせてください。私は血の最後の一滴まで戦い抜きます」
と、世の中が戦争や不条理に満ちていることを嘆かれ、
また藝術こそが21世紀を救うという持論を力強く述べていらっしゃいました。
また、核こそ現代の悪魔であると福島の事故が起こる以前から
核廃絶を訴え続けていられたことも忘れられません。

常に正論を堂々と語られていた先生は、
教職員からも学生からも尊敬され、また愛されていました。
4月の給料と賞与は直接手渡され、
一人ひとりの労をねぎらい握手をされるのが慣わしでした。
教職員が学生のことを悪く言おうものなら大変だったことでしょう。
「大学は学生のためにあり、教職員は学生がいるから存在できる。
何事も学生第1に考えてほしい」
と常におっしゃっていたからです。
本当に素晴らしい教育者でした。
かと思うと砕けた話をしてみんなをリラックスさせてくれたりもしました。

大学内に日本初の歌舞伎劇場「春秋座」を建ててくれたのも
詳直先生の英断でした。
市川猿翁(3代目猿之助)と意気投合して建ててしまった
と言った方が正しいかもしれません。
熱烈な恋愛の末に生まれてきた子供のように、
春秋座は今すくすくと成長しています。
スケールの大きいお二人がいなかったら、
この時代に歌舞伎劇場など生まれなかったでしょう。
私が京都に来られたのも元をただせばお二人のお陰なのです。

私がふと先生に
「理事長の生い立ちを映画化したら面白いと思いますよ。
この波乱万丈の人生は映画でないと描けません。
でも、この大学には映画監督もいるし、脚本家も美術デザイナーもいます。
みんなが協力すればそんなに難しいこととは思いません。
理事長の役は香川照之さんがぴったりだと思います」と漏らした言葉。
映画界のことは良く分らないからこそ出た思い付きだったのですが、
先生は香川さんを直接口説き
「その時はぜひやらせていただきます」
と言わせてしまったのです。
香川さんの外交辞令かもしれませんが、
私にはこの話がいつか実現すると思えてなりません。
本当は詳直先生がお元気なうちに実現すれば良かったのですが、
これからだっていいじゃないですか。
映画化が実現した時には先生の生き様に多くの人が感動すると信じています。
詳直先生、いろいろとやりがいのある仕事を与えてくださり
ありがとうございました。
ゆっくりお休みになることがなかったと思われる先生。
どうぞ、今は安らかにお眠りください。                    橘市郎

 


昨日、小津安二郎の「東京物語」を久々にDVDで見ました。
昭和28年の作品ですから当然モノクロで
画面もほとんど正方形に近い小さなものでした。
カメラワークに至っては何の変哲もない据え置き状態。
画面の枠内に人間が出たり入ったりするかと思えば、
じっと黙って枠内に座っていたりするのです。
まるで客席から芝居を見ているような感じがかえって新鮮でした。
映画だからカメラがダイナミックに動くという先入観は
間違っていることにやがて気がつくことでしょう。
何と言うことのない日常的な会話のなかに、
登場人物の性格や癖が現れてきます。
アクションもない、ドラマチックな言い合いもない。
ただただ静かに、客観的に登場人物が描かれていくのです。


日々の生活に追われている息子や娘の本音が、
上京した父親と母親にチラチラと向けられるのに対し、
夫を亡くした義理の娘が優しく誠心誠意接します。
この義理の娘を演じるのが原節子。
何と美しい上品な日本語をしゃべる女優でしょう。
これに対しちょっと毒のあるちゃきちゃきな下町言葉を駆使する杉村春子。
朴訥で鷹揚のない言葉のなかに不器用な父親を演じる笠智衆、
おおらかで大地のような愛情を感じさせる東山千栄子の母親。
名優たちをまるで長い手綱を操るように静かに御する小津監督。

さすが欧米人をも虜にした作品だけのことがありました。

熱くならず、冷静に物事を見つめていく
小津安二郎の人間としての大きさが生み出した名作なのでしょうね。
私は、ここに尊敬される日本人の見本を感じました。


安倍首相をはじめとする政治家の皆さん、
ご覧になっているとは思いますが、もう一度ぜひ小津作品を見てください。
日本が平和に貢献するのは軍事力でも経済でもなく、
日本人特有の冷静さと優しさなのです。



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